ごあいさつ
気品ある模様と器形の追求を通じ、清純にして華麗なる独自の作陶世界をつくりあげた富本憲吉。伝統に立脚しながらも技術偏重に沈むことなく、たえず新鮮な感覚で〈芸術〉としての陶芸をおしすすめた彼の名とその功績は、近代陶芸の第一人者として、また陶芸史上に光り輝く不滅の金字塔として後世に語り継がれています。そんな富本の創造の所産は、生まれ故郷である大和の美しい自然であったと言われます。代表的モチーフである「竹林月夜」「曲る道」「老樹」「大和川急雨」をはじめ、みずみずしい草花模様などの基本パターンは、澄みきった大和の清らかな自然から生み出されたものにほかならず、現在も陶器の図表のなかに息づいています。この記念館は、四方に塀をめぐらし、堤に羊歯の生い茂る数百年の歴史ある富本の生家を修復して、新たに収蔵庫や図書資料室を加えた収蔵・展観施設で、彼の半世紀にわたる数珠の作品をおさめています。
この地を芸術の源泉とした富本憲吉 ― その面影を残す施設のなかを歩きながら、彼の精華とも言うべき作品の数々をご覧いただき、一人でも多くの方々に彼の精神と息吹を汲み取っていただきたいと願っています。
富本憲吉記念館概要リーチとともに(1911年)
「残された作品をわが墓と思われたし」と遺書せられた富本憲吉の作品の数々―陶器、絵画作品をはじめ、書簡や関係図書類の資料を収蔵・展観する富本憲吉記念館は、彼の芸術発祥の地であり、終生創作の源泉であった大和・安堵にある生家を再生して、昭和49年に竣工開館しました。
ここは、大和民家様式を取り入れて新築された本館、憲吉が愛用した離れ屋、内部を改装して陳列室となった土蔵、そして木立の広がる庭へとつづく門屋の4つの建物から成り、近代陶芸の進むべき方向を示した憲吉の偉大なる精神を後世に伝え残す基点としての役割を果たしています。さらに、平成6年10月には大阪市内から移転された大正3年築の土蔵を展示館として開扉し、収蔵庫、図書資料室も新たに加わって、富本憲吉の研究の場として高い利用価値を誇っています。
また、茶会句会など諸々の文化的集会に活用していただくことを目的とする施設としても広く開放されています。




富本憲吉年譜

1886年(明治19) 現奈良県生駒郡安堵町東安堵の旧家富本家の長男として誕生。
1897年(明治30) 父豊吉逝去により家督を継ぐ。
1904年(明治37) 東京美術学校図案科に入学し、建築及び室内装飾を専攻する。
1908年(明治41) ロンドンへ自費留学。
1909年(明治42) 東京美術学校卒業。ロンドンのV&Aミュージアムに日参し、世界中の工芸品をスケッチ。
1910年(明治43) エジプト、インドを旅行した後、帰国。
1911年(明治44) バーナード・リーチとともに美術新報主催新進作家小品展覧会の会場装飾を担当。同会場で楽焼や木版画を発表する。
1912年(明治45・大正1) 美術新報主催第3回美術展覧会で一室を与えられ、留学中に書きとめた世界各国の工芸品のスケッチや帰国後試作した工芸品、工芸図案を発表する。
1913年(大正2) 安堵の自邸に楽焼窯を築く。
1914年(大正3) 『青鞜』の同人で「新しい女」と騒がれていた尾竹一枝と結婚。
1915年(大正4) 『富本憲吉模様集1』を自刻自刷の木版画で田中屋より刊行。安堵の自邸近くに本焼の窯を築く。
1919年(大正8) 「模様の富本」と称されるなか、新境地としてフォルムの美を主張する独特の「白磁壺」を制作発表する。
1920年(大正9) 磁器の陶板焼成に成功。
1926年(大正15・昭和1) 東京へ移住。
1927年(昭和2) 国画創作協会第6回展に一室を与えられ、大和時代の回顧展として200点あまりを出品。これを機に国画会工芸部を創設する。
1935年(昭和10) 帝国美術院会員となり、帝国美術学校(現武蔵美大)教授に就任。
1936年(昭和11) 九谷に長期滞在し、色絵磁器を制作。
1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる。
1944年(昭和19) 東京美術学校教授に就任。
1946年(昭和21) 単身郷里安堵に帰る。東京美術学校教授、帝国芸術院会員を辞任し、国画会も退会。
1947年(昭和22) 新匠美術工芸会を結成。代表者となる。
1949年(昭和24) 京都市立美術専門学校の客員教授に就任。
1950年(昭和25) 京都市立美術大学教授に就任。
1952年(昭和27) 銀にプラチナを混ぜて独自の金銀彩を創案、成功。
1955年(昭和30) 第1回重要無形文化財技術保持者(色絵磁器)に認定される。
1961年(昭和36) 文化勲章受賞。
1963年(昭和38) 京都市立美術大学学長として逝去。従三位勲二等旭日重光章を贈られる。

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